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”なにしたらいいですか?”

いよいよ、今年度も残り一カ月です。

この一年での成長を実感し、喜び、新しい環境での生活に期待が持てるよう、日々の関わりを大切にしていきます。

今月も、保育に関して記事を書いていきます。ご興味のある方はぜひご覧ください!

3月も、よろしくお願いいたします。

園長

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

園や保育生活に限らず、子どもたちの様子を見守っていると、

・「なにしたらいいの」

・「することがありません」

・「暇です」 と大人の判断を待つ姿がしばしば見られます。

 

「自由時間だよ」と伝えても動けない子もいれば、その一言で動き出す子もいます。

前者は「なにをしたらいいか」の判断を他者に求めており、後者は「自由かどうか」の“許可”を外部に求めている可能性があります。

どちらも、判断の軸がまだ自分の外側に置かれている状態です。

発達の初期にある乳幼児が外部基準で動くのは、発達上自然なことです。

罰を避ける、褒められたい、大人の指示に従う。

これは他律的段階としては妥当な姿です。

 

問題はそこではありません。

重要なのは、他律から自律へ移行する経験が積み重なるかどうかです。

 

ここで考えたいのが「過統制」です。

過統制とは、「活動内容を大人が細かく決める」、「時間を厳密に区切る」、「手順や正解を先に提示する」など、判断の主導権が常に大人側にある状態を指します。

 

過統制の環境では、子どもは「自分で決めるより、指示を待つほうが安全である。」と合理的に学習します。

すると、「自由時間だよ」と言われても動けない子、「自由だ」と宣言されないと動けない子のどちらも説明がつきます。

これは個人の能力や発達の問題ではなく、そのような環境への適応の結果です。

 

判断の軸が外部に置かれたまま成長すると、思春期以降に別の形で現れます。

 

中高生の志望校選びでは、「偏差値が高いから」、「みんなが行くから」

大学生の卒論テーマ選びでは、「無難だから」、「やりたいことが分からない」

就職活動では、「給料が高いから」、「有名企業だから」

外的基準“だけ”で決める傾向です。

 

偏差値や給料で決めることが悪いわけではありません。

問題は、判断の軸が常に外部にあることです。

自分で選び、迷い、修正する経験が不足すると、自分の選択に対する納得感も弱くなります。

 

責任の捉え方の構造も、これに影響します。

園でトラブルや忘れ物等があったとき、

・園の責任か

・保護者の責任か

という二元論に陥りがちです。

 

しかし、大人がすべてを管理し、すべてを補填し、すべての責任を引き受けると、子どもは、「自分が何もしなくても、誰かが整えてくれる」ということを学びます。

 

これは一見、優しさのように見えますが、判断と結果のつながりを弱めます。

 

もちろん、保育園児に大人と同じ責任を求めることはできません。

しかし、

「自分で選ぶ」「結果を経験する」「修正する」

この循環は、年齢に応じて少しずつ担えるようになっていくものです。

 

責任をすべて園か家庭かに振り分けるのではなく、

園・家庭・子どもの三者の中で、発達段階に応じて、「子ども自身の責任」というものを認め、少しずつ責任を子ども側に移していく

それが自立へ向かう過程です。

 

自己決定理論では、自律性は「選択」、「有能感」、「結果の経験」の中で育つとされます。

 

過統制は「自分で決める力」を弱め、

過保護は「自分の選択の結果を引き受ける機会」を奪います。

 

こどもが「することがありません」と言ったとき、

すぐに決めてあげるのか。

それとも、迷う時間を支えるのか。

 

トラブルが起きたとき、

誰かの責任を探すのか。

それとも、自立へつながる経験にするのか。

 

過統制と放任のあいだで、こどもを守りながらも、少しずつ任せていく。

 

その積み重ねが、偏差値や給料だけでなく、自分の基準で選び、そしてその結果を自分で引き受けられる人へとつながっていくと考えています。