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最近、月末に投稿ができず、申し訳ございません。
この時期は、水遊びや泥遊びが盛んになる時期です。当園でも、雨上がりの水たまりや、テントに溜まっている水等を利用してどろんこ遊びが始まります。
遊びたい場所まで水を運んだり、そこで土と混ぜたり、水と土の割合を変えて感触を楽しんでみたり、あるいはバシャバシャと跳ねてみたり。こどもたちは思い思いに遊びを広げていきます。
泥には可塑性があり、水の量や混ぜ方、手の加え方などによって、固くも柔らかくもなります。そして山になったり、水路になったり、だんごになったり、ジュースになったり、ごちそうになったりもします。決まった正解があるわけではなく、こどもの関わり方によっていくらでも形を変えていく、非常に学びの多い素材です。
寒い時期には扱いにくいので、今の時期に存分に触れていきたいですね。
今月も写真のあとにブログを書きますので、ご興味のある方はぜひお読みください!










昨年の9月に、ブログで「模倣」について書きました。今回は、「よい行動を見せれば、こどもはそれを自動的にまねるのか?」ということを、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
模倣は、単なるコピーではありません。こどもは、見たものをそのまま写しているのではなく、自分の身体や自分の理解、自分の欲求、人との関係の中に取り込みながら、自分なりに作り替えています。まねながら見て、考え、感じ、関係に入り、少しずつ自分を作っているのです。
たとえば、保育者が泣いている子に「びっくりしたね」と声をかける。それを見ていた子が、別の場面で友だちに「びっくりした?」と言う。これは単なる言葉のコピーではありません。「相手の状態に気づき、言葉を添え、安心できる関係をつくる」という関わり方を取り込んでいるのです。
逆に、大人が強い言葉や力でこどもを動かしていれば、こどもはその関係の作り方も学びます。たとえば、大人がこどもを叩いて言うことを聞かせていると、こどもは「叩く」という行為だけでなく、「強い立場の人は、弱い立場の人を力で動かしてよい」という構造まで受け取ってしまいます。こどもは、大人が言っていることの中身よりも、大人の振る舞いを見ています。
では、こどもはどんな人を真似したくなるのでしょうか。
こどもは、必ずしも「正しい人」をまねるわけではありません。まねしたくなるのは、「輝いている人」です。静かに座っている子がいても、その表情が沈んでいて、大人に合わせるためだけの“いい子”になっているなら、こどもにとって魅力的なモデルにはなりにくいです。一方で、望ましくない行動であっても、目がキラキラし、場を動かし、楽しそうに見えれば、そちらに引き寄せられることがあります。
ちなみに「輝いている人」とは、元気いっぱいで目立つ子だけを指すのではありません。落ち着いて話を聞く姿に惹かれる子もいます。場を明るくするムードメーカーに惹かれる子もいます。身体を大きく使って遊ぶ子に憧れる子もいれば、黙々と遊びを深める子、小さい子にやさしく関わる子に憧れる子もいます。
だから、集団の中にいろいろなモデルがいることは、とても大切です。「こういう子がよい」という一つの型だけが強くなると、その型に合わない子は、自分の居場所を見つけにくくなります。静かな子だけが評価される場では、元気いっぱいの子は自分を出しにくくなります。反対に、活発な子だけが目立つ場では、じっくり考える子や、ゆっくり関わる子は埋もれてしまいます。
いろいろな姿が、その場の中で大切にされている。いろいろな関わり方が、認められている。いろいろな「輝き(きらきら)」が、見えるようになっている。そういう環境があるから、こどもは「自分に近いモデル」や「少し先の自分」を見つけることができます。そして、「自分もこのままでいていい」「あんなふうになってみたい」と感じながら、安心してその場にいることができます。
模倣には、動機がいります。こどもは、ただ目に入ったものを何でもまねるわけではありません。「楽しそう」「仲間に入りたい」「自分にもできそう」「先生に見てほしい」「強くなりたい」「安心したい」。そうした動機から、模倣が始まります。
だから親や保育者が見るべきなのは、「何をまねているか」だけではありません。「なぜ、それをまねたいのか」です。望ましくない行動がまねされるときも、そこには注目されたい、身体を解放したい、場を動かしたい、といった動機があるのかもしれません。行動を止めるだけでなく、そのエネルギーをよりよい形に移し替える必要があります。
親や保育者の仕事は、こどもを従順にすることではありません。望ましい行動を、我慢や迎合ではなく、こども自身の主体的な行為にしていくことです。
模倣とは、誰か一人を見習わせることではなく、いろいろなモデルに出会う中で、こどもが自分なりの育ち方を見つけていくことです。
だから私たち親や保育者は、こどもたちに「こうしなさい」と形だけを求めるのではなく、「ぼくも、わたしも、やってみたい」と思えるような、いろいろな輝きが見える場をつくっていきたいですね。
5月は、トカゲやヤモリ、蝶やトンボとさまざまな生き物を捕まえたり、モンシロチョウが羽化するのを観察したりしながら、存分に生命と触れ合っているこどもたちです。園で飼っているオタマジャクシも徐々にカエルになってきており、観察にも熱が入っている様子です。
生命尊重の精神を養うためにも、生物と触れ合うことは重要な体験です。6月も、さまざまな生き物と触れ合っていきたいですね。
暑熱順化も進まないうちに、一気に夏らしい気温になりました。保護者の皆様も、熱中症に気をつけて、お過ごしください。
投稿が遅くなりましたが、今月もブログを書いていきます。よろしくお願いいたします。
園長






「わかった気にならない」
現代は、かつてないほど「わかりやすさ」が求められる時代です。
私たちは「すぐに理解できること」「すぐに判断できること」「すぐに使えること」に慣れています。わからないことがあれば検索し、長い文章は要約し、複雑な出来事も「結論は何か」「原因は何か」という枠組みへ、素早く整理しようとします。
もちろん、わかりやすさには大きなメリットがあります。混乱を減らし、次の行動をわかりやすくするからです。保育の現場でも、職員間で方針を共有したり、保護者に説明したり、チームで同じ方向を向くためには、一定のわかりやすさは必要です。
一方で、現代は変化が激しく、不確実で、複雑かつあいまいな「VUCAの時代」です。社会はますます複雑になっているのに、私たちの思考はますます単純な答えを求めてしまう。ここに、現代の大きな矛盾があります。
単純化、一般化が保育や子育てに持ち込まれた時代がありました。しかし、これらは本来、極めて複雑な営みです。
同じ関わりをしても反応は一人ひとり異なりますし、同じ子であっても、その日の体調、気分、友だちやおとなとの関係、家庭での出来事によって、見せる姿はグラデーションのように移り変わります。
保育や子育てには「この原因には、この対応」という単純なマニュアルやメソッドが通用しないのです。
複雑なものを安易に単純化し、一般化しようとするとき、そこからこぼれ落ちてしまうものが必ずあります。
たとえば、友だちを叩いてしまったとき。「叩いた子が悪い」と整理する。あるいは、活動に入れない時、「やる気がない」、「積極性がない」で整理する。一見わかりやすく、解決した気にもなれます。しかし、そのわかりやすさの影で、その子が抱えていた本当の困り感や、育ちのプロセスが見落とされてしまうかもしれません。
保育や子育てには、白黒つけられない、あるいはつけるべきではない曖昧な領域が無数に存在します。こどももおとなも、揺らぎ、迷い、矛盾を抱えながら生きる存在だからです。
それらを急いで単純化せず、複雑なまま見つめるために必要な力が、ネガティブ・ケイパビリティです。
ネガティブ・ケイパビリティとは、すぐに答えの出ない状況に耐え、不確かさを抱えたまま考え続ける力です。
これは、考えないことでも、問題を先送りにすることでも、ただ曖昧にしておくことでもありません。
安易に結論を急ごうとしない姿勢であり、能動的な知性です。ひとつの答えに閉じず、複数の可能性を持ち続けることです。
わからなさを保つことで、こどもを決めつけずにいられます。行動の奥にある意味を探し続けられます。そして、自分自身の思い込みにも気づくこともできるかもしれません。
素早く結論を出せる人が、専門性の高い保育者なのではありません。
すぐに「わかったつもり」にならず、不確かさの中にとどまり、観察し、問い直し、関わり続けること。こどもの姿を、今見えている一面だけで閉じず、日々変わる可能性を秘めた存在として見続けること。
その姿勢こそが、こども理解を深める保育者の専門性です。
わかりやすさが加速し、同時にVUCA化する時代だからこそ、保育や子育てには「わからなさに耐える力」が必要だと思っています。
それは、こどもを決めつけないために。
こどもの育ちを急がせないために。
こどもの姿を複雑なまま、尊重して受け止めるために。
すぐにわかる(気がする)ことが増えた時代だからこそ、すぐにはわからないものを大切にしたいです。
こどももおとなも、揺らぎをもった主体です。だからこそ、焦って”わかろう”とせずに、応答的に関わることを通して、不確実さのなかで”わかろうとし続けていく”ことが必要なのだと思います。
今年度より、チーム制での異年齢混合保育に転換をし、「こどもの興味・関心を出発点とする保育」をより一層重視してまいりました。
こども達は、それぞれに日々やりたい遊びを見つけ、発見と探索を繰り返しています。
変化していく保育室の様子に、こども達も興味津々です。
今年度も、職員一同、こども達の成長と、こども達と保護者の皆様の笑顔のために邁進してまいります。
よろしくお願いいたします。
先月はお休みをいただきましたが、今月から園長ブログを書いていきます。
ご興味のある方はぜひ、ご覧ください。
園長










今回は、”つい”または”思わず”やってしまうということについて考えてみたいと思います。
あまり保育の世界では使われないのですが、中動態という概念は、保育にも示唆を与えてくれます。
日常には、能動的でも受動的でもない行為が数多く存在します。
何かに惹かれ、思わず近づいていってしまう。
面白そうで、つい手を出してしまう。
なにやら人が集まって楽しそうにしていて、気づけば加わっている。
こういった場面では、自分が行為していることは確かです。
しかし、それは完全に自分の意志で選択し、自分の内側から始めた行為だと言い切ることができない場合があります。
行為は、「自分でやる」か「人にさせられる」の二元論だけでは捉えきれないのです。
こどもは特に、何かに触発されたり、巻き込まれたり、引き寄せられたりしながら行為へと向かっていくことがあります。
これは、周囲の人間との関係だけの話ではなく、環境にも同様のことが言えます。
たとえば、柔らかいマットがあれば、つい寝転がってみたくなる。
少し閉じこもれる空間があれば、つい入ってみたくなる。
トランポリンなどがあれば、つい跳ねてみたくなる。
水や砂があれば、つい触ってみたくなる。
音楽が流れていて、思わず口ずさんでしまう。
ここで起きてるのは、単なる受動ではありません。
環境に、行為を強いられているわけではないからです。
この、「ついやってしまう」ことを、すべて本人の自由な選択の結果だとみなしてしまうと、安易な自己責任論に陥ってしまいます。
そこでは、その行為の背景にある場の影響、他者との関係、過去の経験、環境の誘い等といった条件が見えなくなります。
すなわち、「自分で選んだのだから、自分の責任だ」という理解になりやすく、実践や環境を見直すチャンスを逃し続けることになります。
もちろん、それぞれの発達に応じて、行為の結果を自身で引き受けていく経験も重要ではありますが、置かれている環境や状況等が行為を引き起こしてしまった可能性を常に考慮し、安易な自己責任論には陥らないようにしなければなりません。
保育や子育てにおいて大切なのは、その子が”何をしているか”だけではなく、何がその子をそうさせているのかという環境との相互作用の視点だと考えています。
こども達の今の姿を丁寧にとらえ、”環境を通した保育”を今後もより一層充実させてまいります。