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今年度より、チーム制での異年齢混合保育に転換をし、「こどもの興味・関心を出発点とする保育」をより一層重視してまいりました。
こども達は、それぞれに日々やりたい遊びを見つけ、発見と探索を繰り返しています。
変化していく保育室の様子に、こども達も興味津々です。
今年度も、職員一同、こども達の成長と、こども達と保護者の皆様の笑顔のために邁進してまいります。
よろしくお願いいたします。
先月はお休みをいただきましたが、今月から園長ブログを書いていきます。
ご興味のある方はぜひ、ご覧ください。
園長










今回は、”つい”または”思わず”やってしまうということについて考えてみたいと思います。
あまり保育の世界では使われないのですが、中動態という概念は、保育にも示唆を与えてくれます。
日常には、能動的でも受動的でもない行為が数多く存在します。
何かに惹かれ、思わず近づいていってしまう。
面白そうで、つい手を出してしまう。
なにやら人が集まって楽しそうにしていて、気づけば加わっている。
こういった場面では、自分が行為していることは確かです。
しかし、それは完全に自分の意志で選択し、自分の内側から始めた行為だと言い切ることができない場合があります。
行為は、「自分でやる」か「人にさせられる」の二元論だけでは捉えきれないのです。
こどもは特に、何かに触発されたり、巻き込まれたり、引き寄せられたりしながら行為へと向かっていくことがあります。
これは、周囲の人間との関係だけの話ではなく、環境にも同様のことが言えます。
たとえば、柔らかいマットがあれば、つい寝転がってみたくなる。
少し閉じこもれる空間があれば、つい入ってみたくなる。
トランポリンなどがあれば、つい跳ねてみたくなる。
水や砂があれば、つい触ってみたくなる。
音楽が流れていて、思わず口ずさんでしまう。
ここで起きてるのは、単なる受動ではありません。
環境に、行為を強いられているわけではないからです。
この、「ついやってしまう」ことを、すべて本人の自由な選択の結果だとみなしてしまうと、安易な自己責任論に陥ってしまいます。
そこでは、その行為の背景にある場の影響、他者との関係、過去の経験、環境の誘い等といった条件が見えなくなります。
すなわち、「自分で選んだのだから、自分の責任だ」という理解になりやすく、実践や環境を見直すチャンスを逃し続けることになります。
もちろん、それぞれの発達に応じて、行為の結果を自身で引き受けていく経験も重要ではありますが、置かれている環境や状況等が行為を引き起こしてしまった可能性を常に考慮し、安易な自己責任論には陥らないようにしなければなりません。
保育や子育てにおいて大切なのは、その子が”何をしているか”だけではなく、何がその子をそうさせているのかという環境との相互作用の視点だと考えています。
こども達の今の姿を丁寧にとらえ、”環境を通した保育”を今後もより一層充実させてまいります。
いよいよ、今年度も残り一カ月です。
この一年での成長を実感し、喜び、新しい環境での生活に期待が持てるよう、日々の関わりを大切にしていきます。
今月も、保育に関して記事を書いていきます。ご興味のある方はぜひご覧ください!
3月も、よろしくお願いいたします。
園長









園や保育生活に限らず、子どもたちの様子を見守っていると、
・「なにしたらいいの」
・「することがありません」
・「暇です」 と大人の判断を待つ姿がしばしば見られます。
「自由時間だよ」と伝えても動けない子もいれば、その一言で動き出す子もいます。
前者は「なにをしたらいいか」の判断を他者に求めており、後者は「自由かどうか」の“許可”を外部に求めている可能性があります。
どちらも、判断の軸がまだ自分の外側に置かれている状態です。
発達の初期にある乳幼児が外部基準で動くのは、発達上自然なことです。
罰を避ける、褒められたい、大人の指示に従う。
これは他律的段階としては妥当な姿です。
問題はそこではありません。
重要なのは、他律から自律へ移行する経験が積み重なるかどうかです。
ここで考えたいのが「過統制」です。
過統制とは、「活動内容を大人が細かく決める」、「時間を厳密に区切る」、「手順や正解を先に提示する」など、判断の主導権が常に大人側にある状態を指します。
過統制の環境では、子どもは「自分で決めるより、指示を待つほうが安全である。」と合理的に学習します。
すると、「自由時間だよ」と言われても動けない子、「自由だ」と宣言されないと動けない子のどちらも説明がつきます。
これは個人の能力や発達の問題ではなく、そのような環境への適応の結果です。
判断の軸が外部に置かれたまま成長すると、思春期以降に別の形で現れます。
中高生の志望校選びでは、「偏差値が高いから」、「みんなが行くから」
大学生の卒論テーマ選びでは、「無難だから」、「やりたいことが分からない」
就職活動では、「給料が高いから」、「有名企業だから」
外的基準“だけ”で決める傾向です。
偏差値や給料で決めることが悪いわけではありません。
問題は、判断の軸が常に外部にあることです。
自分で選び、迷い、修正する経験が不足すると、自分の選択に対する納得感も弱くなります。
責任の捉え方の構造も、これに影響します。
園でトラブルや忘れ物等があったとき、
・園の責任か
・保護者の責任か
という二元論に陥りがちです。
しかし、大人がすべてを管理し、すべてを補填し、すべての責任を引き受けると、子どもは、「自分が何もしなくても、誰かが整えてくれる」ということを学びます。
これは一見、優しさのように見えますが、判断と結果のつながりを弱めます。
もちろん、保育園児に大人と同じ責任を求めることはできません。
しかし、
「自分で選ぶ」「結果を経験する」「修正する」
この循環は、年齢に応じて少しずつ担えるようになっていくものです。
責任をすべて園か家庭かに振り分けるのではなく、
園・家庭・子どもの三者の中で、発達段階に応じて、「子ども自身の責任」というものを認め、少しずつ責任を子ども側に移していく。
それが自立へ向かう過程です。
自己決定理論では、自律性は「選択」、「有能感」、「結果の経験」の中で育つとされます。
過統制は「自分で決める力」を弱め、
過保護は「自分の選択の結果を引き受ける機会」を奪います。
こどもが「することがありません」と言ったとき、
すぐに決めてあげるのか。
それとも、迷う時間を支えるのか。
トラブルが起きたとき、
誰かの責任を探すのか。
それとも、自立へつながる経験にするのか。
過統制と放任のあいだで、こどもを守りながらも、少しずつ任せていく。
その積み重ねが、偏差値や給料だけでなく、自分の基準で選び、そしてその結果を自分で引き受けられる人へとつながっていくと考えています。
長いような短いような1月もいよいよ最終日を迎えました。
ここのところ寒い日が続きましたが、暑いと言って上着を脱ぐほど、元気いっぱいに体を動かしているこども達の姿がありました。ついつい、暑いから外に出たくないなとか、寒いから外に出たくないなとか、内にこもりがちになりそうですが、それぞれの季節感を全身で浴びる経験も大切にしたいですね。
今月も、こども達のかわいい写真のあとに、保育に関して記事を書いておりますので、ご興味のある方はぜひ(^^♪
今月もありがとうございました。来月もよろしくお願いいたします!
園長









「こどもがなぜ立ち止まってしまうのか。」
こどもと関わっていて、または職場で働いていて、こんな場面はないでしょうか。
「自分で考えて」と言ったのに、失敗した後に「なんで相談しなかったの」と叱ってしまうおとなの姿をみかけることがあります。「自分で考えて」と言っているのに、実際にやってほしいことは、「困ったら相談してほしい」だったわけです。しかし、相談をしにきていたとしても「そのくらい自分で考えて」と叱っていたかもしれません。
自分で決めたら叱られてしまう。
でも、聞いても叱られてしまう。
このような、どちらを選んでも失敗になってしまう状態を、ダブルバインドといいます。
他にも、私が小さい頃のことを思い返すと、こんな場面がありました。
嫌いな食べ物があって、なかなかお箸が進まない子に対して「もう食べなくていいよ」と先生が言ったのに、実際に残すと叱られてしまう。
おそらく本当は、はやく食べてほしかったのだと思います。
極めつけは、「いやだ」と泣きながらもなんとか食べきった子に対して、「食べられるなら最初からさっさと食べなさい!」と叱るおとなもいました。
食べても叱られ、食べなくても叱られる。
このダブルバインドの状態で、こどもに残された選択肢は、給食と向き合ったまま動けなくなることだけだったのではないでしょうか。そんな子の姿を前にしておとなは、「食べるの?食べないの?どっち?」と迫る。こうして、さらにダブルバインドが重ねられていくことになります。
ダブルバインドを繰り返すと、次第に「何もしない」ことを選ぶようになります。
そのほうが、怒られずにいられる可能性が高いからです。
けれども、そんな姿を見て、
「なんで何もしないの」
「言われる前にやらなきゃ」
とさらに叱ってしまうおとながいます。
つまり、どちらを選んでも叱られ、どちらも選ばなくても叱られるのです。「どう行動したとしても否定されてしまう」わけですから、自己肯定感を傷つけられ続けます。
似たような言葉に、ダブルスタンダードも存在します。
ダブルスタンダードとは、同じ事柄に対して、人や状況によって基準を使い分ける事です。同じ行動をある人がする時は肯定的に捉え、ある人がするときは否定的にとらえるというような状態が、これに該当します。
たとえば、自分は大きな声を出して怒るのに、こどもが怒った時に大きな声を出すと「そんなに大きな声を出さなくていい!」とか、「そんな言い方しない!」みたいに言うおとながいます。「自分もしてるじゃん」と言われると、
「おとなとこどもは違うでしょ」とか、
「状況が違うでしょ」と返してしまうことになります。
確かに、おとなとこどもでは、立場や役割が違い、すべてを同じ基準で考える事は出来ません。
しかし、その違いがきちんと説明されないまま、そのかかわりが続いてしまうと、こどもは何が良くて、何がいけないのかを理解しにくくなります。
加えて、こどもに「それはしてはいけない」と伝えている行動を、おとながしている姿を見続けることで、こどもは強い違和感を覚えます。
また、大人がいうことは「意見」と受け取られる一方で、こどもが言うことは「わがまま」や「口ごたえ」と受け取られてしまう場面もあります。同じように自分の考えを伝えているだけなのに、立場によって評価が変わってしまうのです。これも、ダブルスタンダードの典型的な例です。
こどもにとって、おとなは身近な存在です。日々の関わりの中で、言葉だけでなく、おとなの行動や態度そのものを見ながら、多くのことを学んでいます。身近なおとなの行動を見て、本人なりに、「この場面では、このように振舞うのだ」と学んでいくのです。その学びの結果としてとった行動を、注意されてしまうという経験を繰り返すと、「自分で観察して学ぶ」という行動を避けるようになっていきます。
自分で考えて動くことが良い結果に繋がらない環境では、主体性は育ちにくくなります。主体性を発揮せず、受け身でいたほうが安全だと学んでいくからです。それは、怠けているわけでも、何も考えていないわけでもなく、自分を守るために身につけた姿勢なのかもしれません。
ダブルバインドやダブルスタンダードを完全に避けるということは、かなり難しいと思っています。しかし、こどもの混乱や不安につながりやすい関わりである以上、気づいた分については意識して減らしていくことが大切だと感じています。
私たちおとなができることは、矛盾に気付いたときに立ち止まり、伝え直すことです。その際には、基準や理由を説明するべきです。きちんと説明ができないルールや基準なら、そのルール自体を見直すことも必要だと思います。
そうして、こども達自身が「どうしたらいいか」を考え、行動していく。その過程の中で、ときにルールや基準づくりにもこども達自身が関わっていく。そうした経験そのものが、主体性を育む土台になっていくのだと考えています。