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5月は、トカゲやヤモリ、蝶やトンボとさまざまな生き物を捕まえたり、モンシロチョウが羽化するのを観察したりしながら、存分に生命と触れ合っているこどもたちです。園で飼っているオタマジャクシも徐々にカエルになってきており、観察にも熱が入っている様子です。
生命尊重の精神を養うためにも、生物と触れ合うことは重要な体験です。6月も、さまざまな生き物と触れ合っていきたいですね。
暑熱順化も進まないうちに、一気に夏らしい気温になりました。保護者の皆様も、熱中症に気をつけて、お過ごしください。
投稿が遅くなりましたが、今月もブログを書いていきます。よろしくお願いいたします。
園長






「わかった気にならない」
現代は、かつてないほど「わかりやすさ」が求められる時代です。
私たちは「すぐに理解できること」「すぐに判断できること」「すぐに使えること」に慣れています。わからないことがあれば検索し、長い文章は要約し、複雑な出来事も「結論は何か」「原因は何か」という枠組みへ、素早く整理しようとします。
もちろん、わかりやすさには大きなメリットがあります。混乱を減らし、次の行動をわかりやすくするからです。保育の現場でも、職員間で方針を共有したり、保護者に説明したり、チームで同じ方向を向くためには、一定のわかりやすさは必要です。
一方で、現代は変化が激しく、不確実で、複雑かつあいまいな「VUCAの時代」です。社会はますます複雑になっているのに、私たちの思考はますます単純な答えを求めてしまう。ここに、現代の大きな矛盾があります。
単純化、一般化が保育や子育てに持ち込まれた時代がありました。しかし、これらは本来、極めて複雑な営みです。
同じ関わりをしても反応は一人ひとり異なりますし、同じ子であっても、その日の体調、気分、友だちやおとなとの関係、家庭での出来事によって、見せる姿はグラデーションのように移り変わります。
保育や子育てには「この原因には、この対応」という単純なマニュアルやメソッドが通用しないのです。
複雑なものを安易に単純化し、一般化しようとするとき、そこからこぼれ落ちてしまうものが必ずあります。
たとえば、友だちを叩いてしまったとき。「叩いた子が悪い」と整理する。あるいは、活動に入れない時、「やる気がない」、「積極性がない」で整理する。一見わかりやすく、解決した気にもなれます。しかし、そのわかりやすさの影で、その子が抱えていた本当の困り感や、育ちのプロセスが見落とされてしまうかもしれません。
保育や子育てには、白黒つけられない、あるいはつけるべきではない曖昧な領域が無数に存在します。こどももおとなも、揺らぎ、迷い、矛盾を抱えながら生きる存在だからです。
それらを急いで単純化せず、複雑なまま見つめるために必要な力が、ネガティブ・ケイパビリティです。
ネガティブ・ケイパビリティとは、すぐに答えの出ない状況に耐え、不確かさを抱えたまま考え続ける力です。
これは、考えないことでも、問題を先送りにすることでも、ただ曖昧にしておくことでもありません。
安易に結論を急ごうとしない姿勢であり、能動的な知性です。ひとつの答えに閉じず、複数の可能性を持ち続けることです。
わからなさを保つことで、こどもを決めつけずにいられます。行動の奥にある意味を探し続けられます。そして、自分自身の思い込みにも気づくこともできるかもしれません。
素早く結論を出せる人が、専門性の高い保育者なのではありません。
すぐに「わかったつもり」にならず、不確かさの中にとどまり、観察し、問い直し、関わり続けること。こどもの姿を、今見えている一面だけで閉じず、日々変わる可能性を秘めた存在として見続けること。
その姿勢こそが、こども理解を深める保育者の専門性です。
わかりやすさが加速し、同時にVUCA化する時代だからこそ、保育や子育てには「わからなさに耐える力」が必要だと思っています。
それは、こどもを決めつけないために。
こどもの育ちを急がせないために。
こどもの姿を複雑なまま、尊重して受け止めるために。
すぐにわかる(気がする)ことが増えた時代だからこそ、すぐにはわからないものを大切にしたいです。
こどももおとなも、揺らぎをもった主体です。だからこそ、焦って”わかろう”とせずに、応答的に関わることを通して、不確実さのなかで”わかろうとし続けていく”ことが必要なのだと思います。
今年度より、チーム制での異年齢混合保育に転換をし、「こどもの興味・関心を出発点とする保育」をより一層重視してまいりました。
こども達は、それぞれに日々やりたい遊びを見つけ、発見と探索を繰り返しています。
変化していく保育室の様子に、こども達も興味津々です。
今年度も、職員一同、こども達の成長と、こども達と保護者の皆様の笑顔のために邁進してまいります。
よろしくお願いいたします。
先月はお休みをいただきましたが、今月から園長ブログを書いていきます。
ご興味のある方はぜひ、ご覧ください。
園長










今回は、”つい”または”思わず”やってしまうということについて考えてみたいと思います。
あまり保育の世界では使われないのですが、中動態という概念は、保育にも示唆を与えてくれます。
日常には、能動的でも受動的でもない行為が数多く存在します。
何かに惹かれ、思わず近づいていってしまう。
面白そうで、つい手を出してしまう。
なにやら人が集まって楽しそうにしていて、気づけば加わっている。
こういった場面では、自分が行為していることは確かです。
しかし、それは完全に自分の意志で選択し、自分の内側から始めた行為だと言い切ることができない場合があります。
行為は、「自分でやる」か「人にさせられる」の二元論だけでは捉えきれないのです。
こどもは特に、何かに触発されたり、巻き込まれたり、引き寄せられたりしながら行為へと向かっていくことがあります。
これは、周囲の人間との関係だけの話ではなく、環境にも同様のことが言えます。
たとえば、柔らかいマットがあれば、つい寝転がってみたくなる。
少し閉じこもれる空間があれば、つい入ってみたくなる。
トランポリンなどがあれば、つい跳ねてみたくなる。
水や砂があれば、つい触ってみたくなる。
音楽が流れていて、思わず口ずさんでしまう。
ここで起きてるのは、単なる受動ではありません。
環境に、行為を強いられているわけではないからです。
この、「ついやってしまう」ことを、すべて本人の自由な選択の結果だとみなしてしまうと、安易な自己責任論に陥ってしまいます。
そこでは、その行為の背景にある場の影響、他者との関係、過去の経験、環境の誘い等といった条件が見えなくなります。
すなわち、「自分で選んだのだから、自分の責任だ」という理解になりやすく、実践や環境を見直すチャンスを逃し続けることになります。
もちろん、それぞれの発達に応じて、行為の結果を自身で引き受けていく経験も重要ではありますが、置かれている環境や状況等が行為を引き起こしてしまった可能性を常に考慮し、安易な自己責任論には陥らないようにしなければなりません。
保育や子育てにおいて大切なのは、その子が”何をしているか”だけではなく、何がその子をそうさせているのかという環境との相互作用の視点だと考えています。
こども達の今の姿を丁寧にとらえ、”環境を通した保育”を今後もより一層充実させてまいります。
日頃より、ひなぎく保育園の運営にご理解とご協力をいただき、ありがとうございます。
当園では、保育の質の向上を目的として、職員による自己評価を年2回実施しました。日々の保育や保護者支援、こどもの権利と主体性、行事のあり方などを振り返り、園の強みと今後の課題を整理しています。
評価結果を職員全体で共有し、こども一人ひとりの思いや育ちを大切にした、安心して過ごせる保育につなげてまいります。
今後も保護者の皆様や地域の皆様の声に耳を傾けながら、より良い保育所づくりに努めてまいりますので、引き続きご理解とご協力をお願いいたします。
いよいよ、今年度も残り一カ月です。
この一年での成長を実感し、喜び、新しい環境での生活に期待が持てるよう、日々の関わりを大切にしていきます。
今月も、保育に関して記事を書いていきます。ご興味のある方はぜひご覧ください!
3月も、よろしくお願いいたします。
園長









園や保育生活に限らず、子どもたちの様子を見守っていると、
・「なにしたらいいの」
・「することがありません」
・「暇です」 と大人の判断を待つ姿がしばしば見られます。
「自由時間だよ」と伝えても動けない子もいれば、その一言で動き出す子もいます。
前者は「なにをしたらいいか」の判断を他者に求めており、後者は「自由かどうか」の“許可”を外部に求めている可能性があります。
どちらも、判断の軸がまだ自分の外側に置かれている状態です。
発達の初期にある乳幼児が外部基準で動くのは、発達上自然なことです。
罰を避ける、褒められたい、大人の指示に従う。
これは他律的段階としては妥当な姿です。
問題はそこではありません。
重要なのは、他律から自律へ移行する経験が積み重なるかどうかです。
ここで考えたいのが「過統制」です。
過統制とは、「活動内容を大人が細かく決める」、「時間を厳密に区切る」、「手順や正解を先に提示する」など、判断の主導権が常に大人側にある状態を指します。
過統制の環境では、子どもは「自分で決めるより、指示を待つほうが安全である。」と合理的に学習します。
すると、「自由時間だよ」と言われても動けない子、「自由だ」と宣言されないと動けない子のどちらも説明がつきます。
これは個人の能力や発達の問題ではなく、そのような環境への適応の結果です。
判断の軸が外部に置かれたまま成長すると、思春期以降に別の形で現れます。
中高生の志望校選びでは、「偏差値が高いから」、「みんなが行くから」
大学生の卒論テーマ選びでは、「無難だから」、「やりたいことが分からない」
就職活動では、「給料が高いから」、「有名企業だから」
外的基準“だけ”で決める傾向です。
偏差値や給料で決めることが悪いわけではありません。
問題は、判断の軸が常に外部にあることです。
自分で選び、迷い、修正する経験が不足すると、自分の選択に対する納得感も弱くなります。
責任の捉え方の構造も、これに影響します。
園でトラブルや忘れ物等があったとき、
・園の責任か
・保護者の責任か
という二元論に陥りがちです。
しかし、大人がすべてを管理し、すべてを補填し、すべての責任を引き受けると、子どもは、「自分が何もしなくても、誰かが整えてくれる」ということを学びます。
これは一見、優しさのように見えますが、判断と結果のつながりを弱めます。
もちろん、保育園児に大人と同じ責任を求めることはできません。
しかし、
「自分で選ぶ」「結果を経験する」「修正する」
この循環は、年齢に応じて少しずつ担えるようになっていくものです。
責任をすべて園か家庭かに振り分けるのではなく、
園・家庭・子どもの三者の中で、発達段階に応じて、「子ども自身の責任」というものを認め、少しずつ責任を子ども側に移していく。
それが自立へ向かう過程です。
自己決定理論では、自律性は「選択」、「有能感」、「結果の経験」の中で育つとされます。
過統制は「自分で決める力」を弱め、
過保護は「自分の選択の結果を引き受ける機会」を奪います。
こどもが「することがありません」と言ったとき、
すぐに決めてあげるのか。
それとも、迷う時間を支えるのか。
トラブルが起きたとき、
誰かの責任を探すのか。
それとも、自立へつながる経験にするのか。
過統制と放任のあいだで、こどもを守りながらも、少しずつ任せていく。
その積み重ねが、偏差値や給料だけでなく、自分の基準で選び、そしてその結果を自分で引き受けられる人へとつながっていくと考えています。