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例年より早い梅雨入り、そして梅雨明けを経て、早くも厳しい暑さが到来しております。
本日よりプール開きとなり、水遊びを楽しむ子どもたちでした。ぜひ水曜日からの保育参観でも、こども達ののびのびと過ごす姿をご覧いただければと思います。
今月も、写真のあとに保育に関連するお話をしたいと思います。
お時間のある方はぜひご覧ください(^^♪
今月は、当園の保育テーマを一部、解説していきたいと思います。「五感をしっかりと育てていく」という言葉には、どのような意味が込められているのでしょうか。
五感とは、視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚の5つの感覚を指しますが、この感覚をそれぞれ育てていきましょうと言っているのではありません。実体験を通した“学び”が、こどもたちの中に“生き生きと記憶される“、そんな保育を目指していくという意味です。
我々は、五感を通じてこの世界のあらゆる事象をその身に引き受けます。すなわち、実体験を“豊かに”積み重ねていくことによって、五感がしっかりと養われていくのです。そして、実体験を通した五感を刺激する学びは、その身に深く刻まれ、その後の人生における学びを豊かにしていきます。
レモンを例に挙げましょう。図鑑や絵本を見て、「この黄色の果実はレモンという名前で、熟す前は緑色をしていて、大きさは何センチぐらいで、食べると酸っぱいらしい」という文字・視覚情報による学びは、実際のレモンを見たことも食べた事もなければ、一瞬で忘れ去られてしまいます。
一方で、レモンの木が庭に生えていて、熟す過程を観察して、収穫をし、実際に触れ、食べるという経験をしたこどもは、レモンの見た目、手触り、大きさ、味、においなどの具体的なイメージが非言語的な形で自動的に形作られるわけです。「レモン」という名前は忘れてしまうかもしれませんが、別に幼児期においてレモンという名前を忘れてしまうことなど、大した問題ではありません。
こんなエピソードもあります。
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川崎のある小学校で国語の授業を見たときのことです。新見南吉の作品に、「オオカミは何百尺の谷底にまっさかさまに落っこちてしまいました」というような記述があったんです。子どもが「先生、何百尺ってどのくらいなの?」と聞いたので、先生が「そうだな、今で言うと二百メートルぐらいかな」なんて答えました。
皆さん、谷底を見たことがありますか?思わず足がすくみますよね。その谷底を見下ろす上のほうにいたら本当に怖いなと思いますよね。でも、その二年生のクラスの子どもたちは、誰も「谷底」というものを見たことがなかったんです。「谷底ってなに?」って言ってるんです。するとある子が「高いビルの上のほうから落っこちたのと同じじゃない?ビルの上からパチンコ玉を落としたら、地面の中にぐっと入っちゃってすごいんだよ」と話して、それではじめて「ああ、そういうことか」とみんながわかったんですね。
本当は、足がすくむような二百メートルの谷を見下ろす感覚があり、下には細い川が流れていて、そこをめがけて真っ逆さまに落ちていった場面を想像してほしいのだけれど、谷底というものがわからず、ビルの上からパチンコ玉を落とした風景を想像して納得した。これ、皆さんはどう思いますか?
~~~~(汐見稔幸『新時代の保育のキーワード』から引用)
我々は経験したことのない事象は、その一部分しか推し量ることしかできません。「パチンコ玉がビルの上から勢いよく落ちて、地面にぐっと入っちゃう」という例は、あくまで落下の勢いの話をしています。あまりの高さに恐怖し足のすくむ“感覚”、そしてそこから落ちるという”恐怖”にまでは想像が行き届いていなく、そういった含意をくみ取れていないのです。
もちろん、オオカミが200メートル先の谷底へ落ちていくことを、ビルの上からパチンコ玉が落下することに置き換えて理解をしようとすることは、既に知っていることを応用してものごとを捉えようとする素晴らしい姿勢です。しかし、様々な体験や感覚の有無が、学習におけるイメージの形成に影響を与える可能性があるということは幼児教育・子育てに携わる者として押さえておきたいところです。
小学校以降になって学ぶことの多くは、幼児期の体験を、言語や記号などで意味づけたり、理論づけたりしていくような内容です。だからこそ、幼児期の体験が乏しいと、意味づけていく土台がないために、教え方によっては単なる“机の上での理論の学習”になってしまいかねません。
知識を文字や映像で「頭」で“記憶する”のではなく、実体験を通してこの世界を自己の全体で感じ、“生きたイメージとして記憶される”、そんな保育・子育てを心がけたいですね。